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2012年2月28日 (火)

瞬間湯沸器2.0

さてさて,またしても一年弱振りぐらいのエントリーですな。

この間に東日本大震災の爪跡が当事者以外からはすっかり忘れさられ,被害が無かった人々には日常が,復興特需に与った人々には非日常が,ダメージだけの方々には地獄の日常が続いていることでしょう。

それはさて置き(本当はさて置いちゃいかんのですが・・・),今更ながらに古めかしい言葉「瞬間湯沸器」なんてものを引っ張り出して来たのは,最近の世論形成の有り方が些か不健全な方向に走っているなーと,不肖死にぞこないめですら感じ入ってしまう事が多い過ぎるため,警句というか思いつきというか愚痴のようなものを垂れ流したくなったが故です。

少し前に一般意思2.0(てか,今時X.0もないよな)なるものが耳目を集め,ICTがルソーの時代から発展した今様の意思形成プロセスであるだの,逆に2ちゃんに代表されるように,意思の垂れ流しと馴れ合いによる愚民化を助長しているなど,適当なことを言い放っている人がクローズアップされていたのは記憶に新しいところ。

その真偽はどうでもいい,と言うか,一般意思自体が“理性的な近代市民”という幻想の上に立脚しているものである以上,2.0どころか1.0ですら胡散臭い。社会心理学とかのスタンスだと,たぶん認めないんだろうね。

で,それはいいんだけど,意思形成プロセスがICTにより飛躍的進展(退化?)を遂げたという点は今回の核心なので,よく覚えておいてください。(試験に出るよ!)

馬鹿発見器(mixiとかtwitter)やここを始めとする与太ブログ,Yahooニュースのコメント投稿欄など,何か発信しようとすれば事欠かない,というのは今更の話。検閲どころか校正も入らないため,個人の思想信条どころか思いつきやヤッカミに嫉妬,愚痴など垂れ流し放題。

ここで問題なのが,社会のモラルや規範と,個人の感性や感覚とは大きな隔たりがあるということ。君が代問題にも見られるように,社会として許されない行為や思想の表明は厳然とあり,その範疇を逸脱するなら私的テリトリー,つまりはチラ裏でやってろと言うこと。(表現の自由は思想の自由よりもパブリックな存在です。日教組の方々,勉強しましょう!)

これが,先述のICTのお陰というかICTのせいで,個の領域と公の領域がクロスオーバーしてしまい,私的な意見(チラ裏)が公に流れ込んできているのが現状なのですよ・・・。

これの何か問題かと言うと,そして瞬間湯沸器とどう関係するのかと言うと。。。。。。
長文になったので次回に続く(´・ω・`)

2011年7月18日 (月)

やっぱ惨めだよね?

表現者たらんと志す者が作品で自分を語れないのは。

ギャラリーがいないとか受け入れられないとかも辛いけど、表現者としての業を全うした結果であり、それをどう受け止めるかは本人次第だとしても取り敢えずは作品で語った後の事だからな〜。

臥薪嘗胆。
次は満ちた自分が勝負の場にいますように。

つか、祈る前にやる事がたくさんあるね(//∇//)

2011年7月17日 (日)

アート的な独り言、はじめました

今年も恒例の夏のスクーリング、新今宮のドヤ街に泊り込んでこれ書いてます。
どうにもこうにも誘惑に弱く、酒と女に溺れっ放しの私ですが、この時期だけはアーティストの端くれ気分です。

とは言うものの、日常生活に戻るとついつい怠惰に引っ張られ、アートを志す人間として如何なものかと言う、「人間としてアウトやん」というこの間まで抱えていた悶絶(もちろん今でも自分の根底にある問いかけですが、ちょっと小休止)と大差ない状況になりつつあるのですが・・・。

日常に流されながらも、草枕の如く流れに棹を刺し、人間としての営みの中で少しでも問題意識を持ち続け少しでも濃密な時間を増やせれば、自分の深みが増していき、少しずつでも作品に反映されていくのでは?と考える次第です。先生の受け売りですが・・・。

故に、これからまじめにブログ更新します。
バーバルなものをノンバーバルに昇華していくことが今の自分に必要なことですが、きちんと考えることをサボりがちなので、きちんとブログで考えをまとめることで、作品の端緒としようという腹積もりです。

2010年6月27日 (日)

物珍しさとは違うのでしょうか。

アールブリュット、或いはアウトサイダーアート、生がほとばしっているそうだ。

抑圧される、もしくは何かを失うことと引き換えにしか純粋な生はかけないのだろうか?

彼らの描く生の表現が我々の枠組みには存在しなかったが故のカルチャーショックなのか?

いや、我々は解放されていないだけ。

彼らは、ある意味我々が囚われている社会の構造からは解き放たれているだけ。

同じ生物。同じ動物。

後は理性という薄皮を如何に破って飛び出すか。

生の精華を表現してみたい。

2010年6月26日 (土)

生への渇望あるいは憧憬

さて、1年ぶりのこんばんわ。

引っ越して嫁ができて転勤して嫁が妊娠して子供が流れて。
わずか半年の間によくもまぁ色々と。

で、んなことはどうでもいい。

色々考えた末、自分が何を求めているのか、何を表現したいのか
忘れないうちにメモしておきます。

結局、何かわからないけど、生きたいんだ。

でも、それを素直に許容できない時世。誰だって生きていける時代。
生きるだけなら誰でもできる、だからより良い生を歩まなければならない。

それが、生きたいという素朴な想いを薄皮のように包みこんで、窒息しそう。
俺はそれを破りたい。理性の皮を剥いで、いのちを肌で感じたい。

そして、誰かに伝えたい。
出口も分からずうろうろと生きる理由が分からずに、
でも自己との対話が出来ずに、生きていくことが許されないと信じている人に。
そして、それを自分が生きている証としたい。

いままでは、ぼんやりとそれを考えていたけど、
癒しの表現、誰にでも受け入れられる美しさこそが答えだと思っていた。

でも、今日、師の教えで気づいた。
問題は、魂が揺さぶられるに足る強烈なインパクトだ。
突き抜ける何かが必要なのだ。

とはいっても、このご時世、生き死にを突き付けて生に気付かせるのは
ちょっと生々しい。戦国時代に逃げ延びている落ち武者ではないのだ。

癒しと突き抜ける生命力を融合させ、魂を揺さぶる。
これができれば、まぁ、俺が生きている価値があるって自分で信じられるんだろうな・・・。